他人は変えられるか


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他人は変えられないよ、自分が変わるか環境を変えるか、二択しかないんだよ…と言う人が多い気がする。本当に他人は変えられないのか考えてみたい。

1.きっかけ

本当に「他人は変えられない」のか、気になり始めたのは、その言葉の投げやりな響きに違和感を感じたからだ。どうせ人間は変わらないよ、と言われた気がした。別に、自分が気に食わないから論破してやろうとか、言葉の響きが不快だから批判しよう、という目論見ではない。本当に「他人」は変えられないのか、考えてみたくなった。

2.「人間」は「変わる」のか

本当に人間は変わらないのであれば、学校で子供を教育して人格形成を図ることも、刑務所で受刑者を更生させて社会に再び送り出すことも無意味になってしまう。でもきっと何かしら意味があるから大半の国に道徳観念があって人格を教育する場があって、犯罪者の矯正制度があるのだと思う。もちろん社会防衛論とかを持ち出せば処罰の意味合いについて考えなければならなくなるけれども、人間そのものが変わるか否かという本旨から外れるので割愛。

話が逸れたから元に戻す。「他人は変えられないよ」という言い方自体に問題があると筆者は考える。問題があるというより、非常に曖昧である。

その人の人格そのものを変えてしまおうという話なのか、たとえば言葉や言い方だけ、行動だけを変えるのか…。確かに人格や生まれ持った性質そのものを短期間のうちに変えてしまおうとすることは不可能に近い。しかし、「あの時から自分は変わってきたな」「あの人、最近変わったよね」という目に見える言動や態度が変わることは十分にある話だし、その逆、つまり生まれてから天寿を全うするまで一貫して永久不変である、私は変わりません…というのも無理があろうと思う。人間、という言葉の通り、他人と関わって、ぶつかる中でその人の相対的な立ち位置、「自分」が形成されていくのである。だから結論の持っていきかたとしては少々乱暴だけれども、「人間は変わるのか?」といえば、やはり「人間は変わる」ということになろう。

3.「他人」を「変える」こと

それでは本題の、「他人を変えられるか」という話になるが、これも一概に「できる」「できない」の話ではないように思う。

適切な例えか分からないが、「あなたは総理大臣になれますか?」という話がある。日本の政治制度上、必要な資格要件を有していて、いずれ総理大臣になる「資格のある」人間は無数にいる…その実現可能性が限りなくゼロに近かったとしても。ところが、たとえば政権与党の有力会派の代表A氏が次期総理大臣になる可能性となれば、一般人のそれと比べて桁違いに跳ね上がる。

ここで全く違う例を出そう。「人間の手で自然環境を作り出せる」だろうか?きっと一朝一夕には無理であっても、きちんと林の苗木から何代にもわたって守り育てて間伐をして必要な手立てを施せば、自然環境の一部であるところの森林を作っていくことは可能である。ゼロから天体を作って人工物だけで生命の惑星を作ろう、という話ではない。

回りくどくなったが筆者なりの考えを述べるなら、一定の関係や影響を有する人間が時間とエネルギーを割いて一人の人間に変化を与える、ひいては「変えていく」こと自体は可能だと思う。

ここで気を付けなければいけないのは、自分「だけ」の力で「今すぐに」その人という人格を変えることはできない、ということだ。だから、機械を修理するように、自分に都合の良い・悪い部分だけを取り出して、自分だけに都合良くカスタマイズすることは不可能である。その人の置かれた状況を勘案して、その人となりを理解して、今後のその人について責任を持ってあげられる然るべき立場にある人物が、ゆっくり・じっくり付き合う中で手を加えて考えや行動を変えていくことはできる。それが子どもからすれば親であり学校の先生であるし、受刑者から見れば刑務官である。

4.じゃあ本当にやるのか

可能であるかどうか、ということと、実際にやるかどうか、というのは別の話である。

たぶん他人は変えられるらしい。でも、変える必要はあるのか?大半の人が口にする「あいつウザい、何とかしろよ」とかいった次元で「他人を変え」ようとするのは、きっと無理に近いし不届きだと思う。

その人を思う気持ちがあって、あるいは変える使命があって変えていくことはできる。でも実際すごく大変だし、やりたくもないし必要もないことをする人間のほうが稀である。だから、その意味では、多くの人は、他人を「変えられるけど、変えない」のではなかろうか。実際のところ、相手や場合によっては「変えられない」こともあるし、変えなくても良い場合が大半だし、そもそも勝手に「変わっていく」ものだと思う。

一般的な話としての「他人は変えられるか?」に対する筆者の答えは「変えられる(でも変えないよね)」である。

追記.「他人」は単一ではない

最後に、結論に代えて書いておきたい話がある。ここまでの話で少し書いてしまったけれども、「他人」は単一ではない。あんな人もいればこんな人もいるし、そこには自分の家族も、地球の裏側に住んでいて生涯会うことはないであろう人も含まれている。話がここまでくると、家族や身の回りの人々は「他人」というよりも、どちらかというと「自分」に分類することもできそうだ。その他人たちも、そもそも自分と関わりの薄い人なら尚更、自分のあずかり知らぬ所で自分の属さぬ他のコミュニティの中で(勝手に)変わっていくであろう。それに、よく言われる話として「あなたの知っているAさん」はAさんという人間の一側面でしかない。もしかしたら、あなたの知るAさんは、よそ行きの偽った姿かも知れない。それでも、「あなたの中でのAさん」は確かに存在する。それは、あなたが勝手に思い込んでいる、あなたにしか見えないAさんだとしたら、そのAさんを変えることは容易ではないだろうか?あなた自身の解釈をあなたが書き換えてしまえば済む話だからである。思うことは自由だ。Aさんを自分の中で、遠ざけようと、好意を持とうと、あなた自身が何かAさんに対してアクションを起こさない限り、あなたとは無関係なところにAさんは生きている。「あなた」の中での「その人」を変えることなら容易なのだ。だから、その意味ではやはり、多く言われるように、他人の言動や性格をどうにか直そうとするよりは、自分自身の解釈や捉え方を見直すほうが容易で生産的なのかも知れない。

 

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今までスマホで書いたあらゆる文章の中でも、最も長くなった。なんでここまで気力を使って「他人を変えられるか問題」にこだわるかというと、筆者自身が対人関係で思い悩むことが多いからだ。そうでなければ、それこそ、ここまでの労力と使命感を持って書くまい。だから自戒の意もあって、ここまで書いた。もちろん、これだけが絶対に正しいとも思わないし、可能なら是非とも、更に探究してみたい。

 

ここまでお付き合い下さった皆様、誠にありがとうございました!